
前回からの続きです。
さて、そこで宮脇さんはなぜ子供室はいらないと言っているのか。
それには、まず子どもの年齢を考えなければいけない。普通に考えれば18歳まで。小学校1、2年生までは、親のお尻にくっついているから、子供部屋なんてつくっても無意味だろう。むしろ、家中が子供部屋状態になる。中学1年生くらいになると、反抗期であるし、自分の個が生まれるから、自分の場が欲しくなる。特に女の子にはプライバシーの要求が生まれ始める。だから、勉強部屋ではない、コーナーでもよい、自分の専有できるスペースが欲しくなる。中学の後半から高校になると、勉強部屋ということではなくて、親に隠れる空間が欲しくなって、勉強部屋を要求する事になる。
親は勉強部屋を与えた事で自分の義務を果たしたと安心し、子どもは自分の自由な空間を得た事で、安心する。そこから生まれるのは、家族の断絶。(と、ここまでは宮脇さん書いてないです)。
ここからは、私見です。確かに、高校生くらいになれば、自分の空間が欲しいと考えるのは自然だと思います。男の子、女の子、いろいろありますもんね。この位になると、親に言えないようなことができて当たり前。夫婦だって、書斎が欲しい、家事室が欲しいというのは自然だと思うのです。
ここで「ノイズ耐性」というお話をしたいと思います。自分は首都大学東京の社会学者宮台真司教授から学びました。更には、神戸海星女子学院大学教授の森新三先生。
それはどういう事かというと、自分が勉強しようと思った時、兄弟がいて騒いでいても、心静かに勉強できるか。待ち合わせで、あと30分あった時にその時間を有効に使えるかというです。社会人としてみれば、いろいろな課題を抱える中で、ひとつのことに集中して成果を上げる事ができるかということでしょうか。
彼らが言うのは、無菌培養(=子供室)の中で成果が上げられても、現実の社会の中では、そんな環境は無い。社会に出れば、変な上司がいて、仕事の出来ない部下がいて、それを当たり前として成果をつくれるのが、有為な人間である。親は子供に対し、どんな世の中になっても強く生きてもらいたいと思っているのではないか、それには何が必要かということです。
そういう観点から考えると、無菌培養の子供部屋をつくることが、自分の愛する子どもにとっていいことなのか。と思います。多少のノイズがあろうとも、そこでちゃんと自分がやらなくてはいけないことを出来るようにする事が、親の責任ではないかということだと思います。例えば、テレビがついていたり、兄弟がケンカしていても、そこで平気で勉強できる子どもっていますよね。
自分も少しだけ社会活動に携わっています。最近、小学生の夏休み宿題相談会に参加してきました。みんないい子なのですが、この辺の観点から言えば、大きな差異がありました。ある子は、周りが少々うるさくても、きっちりやることができます。他方、周りに引きずられて、何もできなくなってしまった子もいました。
後はご両親の考え方ですが、子供部屋はなるべく小さくして、共通の勉強スペース(ご両親も含めて)をつくるという考え方もあります。
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